【昇格関連】岡ちゃんのコメント
岡ちゃんからのメッセージが掲載されていた。まさか、今をときめくこの方からお祝いのコメントがあるとは思ってもみなかったので、びっくりした。
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スポニチより
http://www.sponichi.co.jp/hokkaido/news/2007/12/02/01.html
札幌 Vで決めた!!6年ぶり復帰
札幌が逆転Vで6年ぶりのJ1復帰を決めた。札幌は今季最終節となった1日の水戸戦(札幌ドーム)で前半11分に先制を許したが、前半43分、さらには後半38分にFWダヴィ(23)が連続ゴールを決めて、2―1で逆転勝ち。前節まで勝ち点88で並んでいた首位・東京Vが引き分けたため、J2優勝で有終の美を飾った。今季から指揮を執った三浦俊也監督(44)は就任1年目にして“男”となり、99年にJ2が新設されて以来2チームを昇格させたのは史上2人目の快挙。また、元札幌監督で次期日本代表監督への就任が決定的な岡田武史氏(51)が本紙に特別寄稿をしてくれた。
【札幌2-1水戸】1メートル70の小柄な三浦監督が3度宙を舞った。J2優勝でのJ1昇格。札幌ドームの電光掲示板に「CHAMPION」の文字が誇らしく輝いた。
「本当に苦しい試合でしたが、選手は粘り強くやってくれた。北海道の皆さんの応援で逆転できたと思う。きょうは思い切り喜びを分かち合いたい」――。三浦監督が札幌を愛するすべてのサポーターに呼びかけた。
就任と同時に打ち出したのが組織的な守備の構築。そのために身近なところから「規律」を重んじた。クラブハウスへの雑誌、マンガの持ち込みを厳禁。当初はプライベートにまで干渉する指揮官に反発を抱く選手も少なくなかったが、チームに結果が伴うと文句を言う選手はいなくなった。
二流の選手が超一流の指導者になった。駒大時代は無名選手。「オレもプロの選手になりたかった。選手の方が絶対いい」。その夢は実現しなかったが、指導者を目指し、91年にはドイツへコーチ留学してプロの体系的な指導の礎を築いた。
今季開幕時のJ1、J2計21人の日本人監督で、三浦監督はただ1人、日本代表、Jリーグ、日本リーグ歴がない。「反骨心?グラウンドに出たら関係ないから」。先発を外す選手には丁寧に理由を説明し、会見では控え選手の重要性を強調。苦労人の気遣いが、チームの結束力を高めた。夏場にメーンスポンサー・石屋製菓の賞味期限改ざん問題に揺れ、第37節からの8試合で1勝6敗1分けと不振にあえいだが、チームは崩壊することはなかった。
11月5、6日のオフは、恵子夫人(40)と2歳の長男の家族3人で函館を訪れた。その旅行先で95年のハンドボールU―23日本監督でドイツ遠征で知り合った函館大・松喜美夫監督(57)と会食。松監督は当時を振り返り、「“私も選手時代は二流だったが、指導者で一流を破りたい”と2人で話した。エリートに負けたくない、という三浦監督の意気込みは変わらないね」と話した。
そんな三浦監督の信念が結実してのJ2優勝。チーム人件費は15億円超の東京Vを筆頭に札幌は約6億円のリーグ7位。三浦監督自身は「クラブの資本力が順位を決める。(東京VのMF)ディエゴ1人の年俸でウチの先発11人分」という現実主義者の側面も持つが、その東京Vには今季2勝1敗1分け。守備の組織力で名門クラブの派手な個人技を封じ、結果として持論さえ打ち砕いた。
J1に上がっても指揮官の信念がぶれることはない。「守備的なサッカーはJ1で通用しないと言われるが、走らない、全員で守備をしないチームは絶対に勝てない。J1の下位3チームは守備が崩壊していた。何よりイタリアは守備が強くW杯で4回優勝しているんだ」。その批判が的外れであることを、復帰の舞台で必ず証明するつもりだ。
▼三浦 俊也(みうら・としや)1963(昭38)7月16日生まれの44歳。岩手県釜石市出身。釜石南高から駒大に進学。91~96年ドイツ・ケルンスポーツ大にコーチ留学。96年にS級ライセンス取得。97年JFL仙台のコーチ、監督。98年にJFL水戸監督に就任。98年J2大宮コーチ、00年に同監督に就任したが、01年シーズンを最後に退任。04年に大宮監督に再就任し、J1昇格を果たした。07年に札幌監督に就任。家族は妻と長男の3人。
◆札幌昇格メモ ◆6年ぶり 札幌が02年以来、来季6シーズンぶりにJ1へ復帰。過去に04年川崎F、05年福岡が5シーズンぶりに復帰したが、6シーズンぶりはブランクとしてはJリーグ史上最大だ。
◆昇格請負人 三浦俊也監督は04年大宮をJ1昇格させたのに続いて、2度目の昇格監督となった。過去に昇格2回の指揮官は松田浩監督(05年福岡、06年神戸)がいるが、神戸はシーズン途中から指揮。年間通してチームを率い、2度の昇格は三浦監督が初めてだ。
【岡田武史元監督特別寄稿】札幌は長い間J2で低迷が続いていたので、今回の昇格には“本当におめでとう”と言いたい。オレは就任1年目(99年)に失敗したから、翌年にJ1昇格を決めたときは格別にうれしかった。ただ、俊也(三浦監督)はダントツで首位だった時期もあったから、うれしいというよりも、ホッとしているんじゃないかな。
今季は札幌の試合を見る機会はそう多くはなかったけど、この戦力でJ2を勝ち上がってきたのは効率的。夢ばかり追わず、俊也が現実的な戦術を取った結果だと思う。長丁場のJ2で守備の意識を徹底させたのは、賢明な選択だった。J2はJ1に比べてプレースピード、ボールコントロールの正確さなど選手の能力が劣ると言われる。その中で守備を安定させて、カウンターやセットプレーで素早く攻める形ができていたんじゃないかな。
オレもマリノスのときは俊也の大宮(通算2敗1分け)にやられていたからね。悔しいと言うか、何と言うか…。J1でも下がって、下がってカウンターを徹底していた印象がものすごく強い。堅い戦い方をするのは、変わらないね。それが俊也の強みだと思うけど。
俊也との付き合いは日本代表合宿のときからで、当時の印象はまじめなヤツという感じだった。加茂周さん(元日本代表監督)とオレがコーチで95年に日本代表合宿でドイツに行ったときだね。そのとき俊也はドイツ語の通訳と、代表チームのマネジャー的な仕事も兼務していたことを覚えている。本当に熱心なヤツで、夜にホテルの部屋にわざわざ訪ねて来てたよ。加茂さんとか、オレにしつこいくらい質問攻めをしていたのを思い出す。がむしゃらだったんじゃないかな。まだ若かったのに大したもんだよ。
J1昇格を決めても、残留するのはさらに大変だ。ただ、俊也も大宮を残留させた経験を持っているし、とにかく頑張って札幌をJ1チームとして定着させてほしい。
(岡田武史氏=99~01年札幌前監督)
▼岡田 武史(おかだ・たけし)1956年(昭31)8月25日、大阪府出身の51歳。98年に日本代表監督として、W杯(フランス)本戦に日本を初めて導いた。99年J2札幌の監督に就任したが、5位でJ1昇格を逃す。00年にJ1昇格を果たした。01年に札幌を初のJ1に残留させて退任。03年に横浜の監督に就任したが、06年8月のシーズン中に成績不振で辞任した。現在は日本サッカー協会特任理事。
[ 2007年12月02日付 紙面記事 ]